宇多田ヒカルの歌わない世界で

突然ですが、私は宇多田ヒカルちゃんのファンです。
かれこれこの仕事を始めたあたりから好きなので、16年来のファン歴になります。

という訳であたらしいアルバム「Fantome(ファントーム)」を買いました。
CDを購入したのは、かなりひさしぶりです。
これを聴いて書かずにはいられなくなったので、ついつい長文ですが書きますね。

20161001_1

宇多田ヒカルの歌わない世界で

2010年からの彼女の活動休止期、日本をはじめ世界の有り様が一気に変わってしまった印象がありました。
まず2011年の東北大震災。以降スマホが一気に普及、SNSでどこでも誰でも世界と双方向で繋がるように。
世界でテロは終わる気配もなく、この国では政治の形が一気に変わってしまいました。

どうしようもない居心地の悪さを抱えながら、私もこの時期に妊娠出産育児を経験して、時々思うことがありました。

「宇多田ヒカルが今、歌うとしたら、どんな曲なんだろう?」

でももう、彼女は歌わないかもしれない。彼女が母親を失ったときに、私はそう思いました。

「ひとり」のせかい
正直に言うと、私は彼女にかなりのシンパシーを感じていました。
私が小さな頃に両親が離婚して、私はひとりっこで、母親という存在をひとりで受け止める必要があったこと。
母親という存在が大きくて、いつもコンプレックスを抱えてきたこと。
母親が自由で純粋で、そしてどうしようもなく、傷つけられたこともあること。

だからこそなのか、宇多田ヒカルという人の抱えている寂しさや孤独が、どうしようもなく悲しそうで、楽しそうにしていても辛そうで。
周囲との距離感のつかめなさも、同じひとりっこだからか、何だか他人事には思えませんでした。

だから、私には彼女に共感するところが多く、好きな理由もわかるけど、
正直どうしてこんな風にメジャーな存在なのか、わからないなとも思っていました。

でもそれは結局、人が誰もみな孤独でひとりだ、という絶対的共通点を持っているからかもしれません。

「花束を君に」「真夏の通り雨」
この春に「とと姉ちゃん」で初めて「花束を君に」を聴いたとき、びっくりしました。

最初、彼女が歌っていることに全然気づかなかったのです。
歌い始めが特に顕著かなと思うのですが、歌い方や声が全然違うように感じられて。

そして、この違いは彼女が「お母さん」になったからかな。と思いました。
包み込むように、抱きしめるように
悲しいことも楽しいことも全部受け入れたような声に、とても胸が熱くなったのを憶えています。

そして「真夏の通り雨」を聴いて更にギョッとしました。
あまりにもストレートな歌詞で、どうした!?と。彼女はこういう包み隠さない表現は、あまりしてこなかったので。
鎮魂歌以外の何物でもない。まっすぐな歌詞でした。

あたらしいアルバムが出る、と知ったとき、これはとんでもないことになりそうと思ったのでした。

ちょっと長いので続きます。続きはこちら