あたらしいアルバム「Fantome(ファントーム)」を聴いて
ついつい書かずにはいられなくなったので、ついつい長文ですが書いています。
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「SONGS」をみて
NHKの「SONGS」で糸井重里さんと対談しているのをみてから、このアルバムを聴いて、ああ〜と納得するところがいくつか。
- 苦しそうな歌いかたをやめた
- 「率直になった」歌詞
- 宇多田ヒカルはアウトサイダー
- 出産を経て
活動復帰前後の変化の理由がわかったような気がしました。
歌いかたと、歌詞の変化
自分で聴いていても、復帰前の歌いかたはとても苦しそうで辛そうだった、と本人談。
(糸井さんは「すごく切なそうに歌うよね」と。)
今回のアルバムでは意識して、そういう歌いかたはしないようにしたそう。
※「Automatic」なんて特にわかりやすいのですが、歌い出しからしてメチャクチャ切なそう。「な、な、かいめの〜」と聴いているだけで切ない恋愛なんじゃないかと感じてしまう。
あと、糸井さんが「歌詞が率直になったね」と何回か繰り返していたのが印象的で。
「包み隠さず、裸をさらすつもりで書いた歌詞だから、感想で『肉体的になった』って言われたことがうれしかった」と彼女が言っていたのが興味深かった。
そう、宇多田ヒカルのコンサートに、二回行っているのですが、どちらもすごくむずかゆい想いをして帰ってきたのを思い出しました。
一歩引いている存在
私の一回目のコンサート参戦は2004年の「ヒカルの5」
こんなに売れに売れているアーティストなのに、客席の温度が低めで、かなりのカルチャーショックを受けて帰ってきました。
何しろB’zのライブなどで、客席が興奮状態なのが手に取るようにわかって、会場全体の一体感がある状況がライブだと思っていた私にとって、宇多田ヒカルのコンサートはちょっとした「引き」や「遠慮」があるのが感じられて、それは間違いなく、宇多田ヒカルが「一歩引いている」からなんだと、そのとき思いました。
「盛り上がる」ライブではない。
それが悪い訳じゃないし、その「一歩引いた」距離感がファンを捉えていたんだろうなあとも思うのですが、何だかもったいないなあと当時の私は思ったのでした。
隠しているし、さらけ出してもいない。
それでも多くの人の心を捉えるのは、そうした絶妙な「引き」だったのかもと、今は思います。
※ちなみにB’zの「快楽の部屋」の歌詞は、かなりそうした「引き」とは無縁で面白いです。全部脱いじまえよみたいな感じ(笑)
そうしたら「Fantome」では、まっすぐに自分をさらけ出した歌詞がそこにあって。
何だかその脱ぎっぷりに、相当な勇気と覚悟があっただろうなと想像せずにはいられませんでした
超個人的なことは世界とつながる
彼女が経験したことと、それを乗り越えたことで、今までの曲に対する理解も進むようなアルバム「Fantome」
辛いこと、苦しいことが、悪いことでは決してなくて
楽しいこと、うれしいことだけが、良いことでは決してなくて
全部含めて愛せる、愛していこうという決意が、涙が出る程尊い。
「花束を君に」のなかの「涙色の花束」は、本当に秀逸な表現だなと、感服します。
個人的に私も、ひとつの大きな区切りを迎えたタイミングだったので、特に深く響きました。
日本も、世界も、本当に難しい時代に入りましたが
ひとりひとりの心持ちが、こういう「響き」に共鳴していくと、あっという間に何かが変わっていくのかもしれません。
個人的なこと、っていうのは突き詰めていくと、本当に世界を変える力があるんだって
彼女の歌を聴いていると信じられるような気がします。
本当に心細かった。このまま深く暗いところに沈んでしまうんじゃないかって。
コンサートで「ヒッキー!!」って叫んで、あなたに私の声が届きますようにって思ったあのときみたいに、この声も届くといいな。
おかえりなさい。また歌ってくれることが、私の希望です。ありがとう(*^-^)